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聖歌は生歌

聖歌は生歌

祈りを歌う

古くからのことわざには「よく歌う人は、倍祈る」というものがあり、聖アウグスティヌスも「歌うのは愛している証拠」
(『説教』336,1)と言っています。このようなことを踏まえ、教会の勧めでも、典礼ではなるべく歌うことが望まれてい
ます。『ローマ・ミサ典礼書の総則(暫定版)』では「司祭または助祭、あるいは朗読奉仕者が歌うべきもので、会衆
の答唱がこれに伴うもの、もしくは司祭と会衆のが同時に歌うべきものから」(40)、すなわち、式次第の部分から歌
い始めるように勧めています。このことは、十分に理解されておらず、多くの共同体でも、ここから歌うことが行われて
いないようですが、このことは、「典礼」と切り離せない重要な問題なのです。そこで、ここでは、早世した民族音楽学
者、小泉文夫氏の研究をもとに、共同体と歌の関係を考察し、典礼における聖歌のあり方について見てゆきたいと思
います。

 【歌のもつ意味-その1】
 小泉文夫氏は、「人はなぜ歌うか」という課題を探るべく、多くの社会、とりわけ発展途上の社会へ出かけて行き、
フィールドワークを行いました。その一つの結論が「目に見えないものとの対話が歌である」ということです。アフリカ
の部族社会では、部族の歌の他に、個人の歌もたくさんありますが、それらの大部分は、恋の歌か死者への歌だそ
うです。恋の歌は、恋人と性交渉ができない欲求を歌にし、死者の場合は実際に話しかけられないから歌うのだそう
で、実際のコミュニケーションが成立しない場合、歌が、恋人や死者とのコミュニケーションになるのです。言い換え
れば、目に見えない存在とのコミュニケーションを取る手段が歌ということなのです。
 典礼における祈りも、目に見えない神との対話であり、復活して父の右の座におられる主キリストとの交わりです。
公式祈願や叙唱は、司祭が共同体を代表して神に向かって祈り、語りかけるものです。ミサの中で計5回交わされる
あいさつも、司祭と会衆がキリストとの交わりを確認するものです。
 目に見えない存在、実体のない相手との交流が歌によってなされることが、歌の本質の一つであり、そこに歌の意
味が浮かび上がるならば、ミサで、司式者が祈願や叙唱・奉献文を唱えたり、交わりの儀でさまざまなレベルで神に
平和を願い(「ミサの式次第」【交わりの儀】参照)、キリストとの交わりを確かめるあいさつなどを歌うことは、まさに、
「目に見えない神、全能の父と、神のひとり子、主イエス・キリストを、心を尽くし、声を限りにたたえること」(復活賛
歌)に他なりません。
 ミサで式次第の部分を歌唱=朗唱し、「教会の祈り」でも、詩編やその他の祈りに旋律を付けることは、祭儀を荘
厳、華麗にするというレベルにとどまるものではないのです。それは、第二ヴァチカン公会議が『典礼憲章』で、基本
的な刷新の主眼とした「会衆の行動参加」の基本であるばかりでなく、目に見えない存在、実体のない相手との交
流の本質的要素であり、むしろ、歌わないことで交流が不完全なるといっても過言ではないでしょう。
 目に見えない神、主キリストとの交わりを質的にも霊的にも深めるために、対話句をはじめとしてミサや「教会の祈
り」全体を歌唱=朗唱することは、その本質であり、非常に重要な意味を持っているのです。
 《この項の参考文献》
 『第二バチカン公会議公文書全集』「典礼憲章」(サンパウロ 1986 )
 『ローマ・ミサ典礼書の総則(暫定版)』(カトリック中央協議会 2004 )
 團伊玖磨+小泉文夫『日本音楽の再発見』(講談社現代新書462 講談社 1976 )

 【歌のもつ意味-その2】
 次に、小泉文夫氏のフィールドワークから共同体における歌の意味を考えてみましょう。
 [リズムのもつ意味]
 アラスカに古くから住むイヌイット(彼の著書=後記、では「エスキモー」)には、二つの音楽文化があるそうで、一つ
は、カリブーという鹿の一種を獲る人たちのもの、もう一つは、クジラを取る人たちのものです。カリブーを獲る人たち
は、二人が一緒に歌っても、拍子を合わせることができませんし、ひとりで太鼓を叩いて歌を歌っても、太鼓のリズム
と歌が合わないのだそうです。
 一方、クジラを獲る人たちは、夫婦はもちろん、十人、十五人で太鼓を叩きながら歌っても、ぴったりと合うのです。
 では、なぜ同じイヌイットでありながら、このような違いが出るのでしょうか。
 小泉文夫氏は次のように結論付けています。
 カリブーを獲る人たちは、一人でカリブーを獲るので、他人と協調して獲る必要はありません。
 一方、クジラを摂ることは一人ではできません。鯨を獲るチャンスは2回しかなく、湾の中にクジラが入ってきたと
き、皮のボートで湾を塞ぎ、残りの人たちが、割れ目のところに集まって、クジラが息を吸うために氷の割れ目に出て
きた一瞬を狙って、合図を送ってクジラを獲るのです。このタイミングを合わせることができると、クジラは、大量の油
や食料になるので、村全体が生きてゆけますが、獲りそこなうと飢えてしまうので、クジラがいないとき、「その運命
共同体の人たちは声を合わせ、リズムを合わせる練習をしていたんですね。その練習が歌なんです。太鼓を叩きな
がら歌うんです。」(小泉文夫『フィールドワーク』「人はなぜ歌をうたうか」106ページ(冬樹社 1984 ))
 つまり、カリブーを獲るイヌイットは一人で狩をするので共同作業の必要がなく、一人で太鼓を叩き歌をうたっても拍
子(リズム)をあわせることができません。それに対して、クジラを獲るイヌイットは、クジラを獲るためにタイミングを合
わせることが必要で、その練習として歌をうたいます。つまり、一致協調して共同作業をするために、すなわち、生き
るために拍子(リズム)を合わせ、その練習として歌うのです。
 他にも、スリランカに住む非常にプリミティブな民族のヴェッダ族も、一緒に歌をうたうように頼むと、まったく別の歌
を同時に競って歌ったそうです。彼らも、動物を獲るときは各自ばらばらで、みんなで協調して獲ることはないので、
拍子をそろえたり、同じ歌をうたうことがないのです。
 [ハーモニーのもつ意味]
 続いて、首狩族のハーモニーについての例です。首狩り族というと、非常に野蛮な感じを受けますが、彼らが首を
狩るのは、自分たちの猟場や田畑を守るため、いわば専守防衛で、彼らの社会は、組織的政治的支配力が確立し
ておらず、もちろん、組織だった軍隊などありません。また、大変、繊細、臆病な人たちで、外部との接触を極力避け
て、内輪だけで暮らしています。
 さて、彼らが首を狩りに行く前には、長老が歌いだし、みんなでハーモニーを付けてゆきます。ハーモニーがきちん
と合っていれば、みんなの気持ちも合っているので、「首を狩りに行こう」ということになります。しかし、合っていなけ
れば、逆に自分たちが首を狩られてしまう可能性があるので、「彼らは非常に真剣に、額に汗をかいて」(前掲書115
ページ)歌うのだそうです。つまり、彼らが作り出すハーモニー(和音)には、首を狩るか狩られるかという占いとして
の願いが込められていて、ハーモニーの良し悪しは気持ちが合うか合わないか、さらに、その部族が滅びるかどうか
という命がけの問題なのです。
 小泉文夫氏によると、首狩りが上手な種族はだいたい歌が上手で、ハーモニーがよくそろいます。下手な種族は、
どこかに乱れがあって、少し甘いのだそうです。歌がうまいかどうかということの背景には、種族の保存という切実な
問題があったことがわかると言います。「人は、なぜ歌をうたうか。それは、・・・・音楽の原点、歌の原点には、人間
が生きるという本能的な生存に関係があった。そして、歌が下手だった人たちはみんな滅びていったのだという、深
刻な問題があった」(前掲書117ページ)と結論付けています。
 [二つの結論]
 これらのことをまとめると、音楽の諸要素は本質的に共同体の存続と深く関わっているということができます。典礼
的な表現を用いれば、拍子を合わせることで「一致協調を促進し」(『典礼憲章』116)、ハーモニーを合わせることで
「声の一致によって心の一致はいっそう深められ」(「典礼音楽に関する指針」5)ることになるのです。
 《この項の参考文献》
 『第二バチカン公会議公文書全集』「典礼憲章」(サンパウロ 1986 )
 「典礼音楽に関する指針」(礼部聖省発布 典礼委員会秘書局 1967 )
 小泉文夫『フィールドワーク』「人はなぜ歌をうたうか」(冬樹社 1984 )

 【歌の本質】
 以上をまとめてみましょう。歌うことは、目に見えない存在との対話の手段であり、リズムやハーモニーは共同体の
存亡と深く関わっています。しかし、一般社会でも、教会共同体においても、音楽がそこまで深い存在意義を持って
いるようには感じられていないのではないでしょうか。
 イヌイットや首狩り族の例を見ると、歌は生活そのものであり、音楽は非常に実体感のあるものです。社会がプリミ
ティブであらゆることに力を合わせなければ、個人の生命も保証されない共同体であればあるほど、音楽は実体感
があり、歌は生活そのもの、生活とは切っても切り離せないもの、生活には不可欠なものなのです。そのような社会
では、音楽・歌は聞くことと演奏したり歌ったりすることが不可分に結ばれ、分化していなかったのです。
 しかし、社会が複雑化するに従い、歌を歌えなかったり、上手でなければ生きて行けないという、生命の危険に対
する切迫感もなくなり、同時に、歌を演奏したり歌ったりする人と、聞く人とが分化していったために、音楽・歌は、そ
の本質からみると、非常にいびつな形態で演奏され、聞かれているのです。
 「必要なものがあまり苦労しなくても手に入るようになった。それはたしかに便利だけれども、今やそれが本当に必
要かどうか音楽についても問われている。だから、私たちはもうちょっと昔の姿に戻ってみなければならない」(團伊
玖磨+小泉文夫『日本音楽の再発見』68ページ(講談社現代新書462 講談社 1976 ))という、小泉文夫氏の指摘
は、典礼音楽・教会音楽についてもあてはまるのではないでしょうか。教会においても、さまざまな時代、あらゆる種
類の音楽が簡単に演奏できるようになっています。それはそれで便利ですが、共同体が存続できるかどうかという音
楽・歌の本質的な部分についてわたしたちは、もう一度反省し、見直し、刷新してゆく必要があるのではないかと思
います。
 《この項の参考文献》
 小泉文夫『フィールドワーク』「人はなぜ歌をうたうか」(冬樹社 1984 )
 團伊玖磨+小泉文夫『日本音楽の再発見』(講談社現代新書462 講談社 1976 )

 【共同体存続のために必要なこと】
これらのことから、共同体の存続のために、歌や音楽に求められていることは、どのようなことでしょうか。この点に
ついて小泉文夫氏は、沖縄本島北部の国頭(くにがみ)地方における歌の例を挙げています。沖縄のほかの地方に
は、一人で歌う民謡があるのですが、国頭には古来から、固有の民謡がなく、太鼓などを叩いて村中でいっせいに
歌い踊るための歌があるだけです。国頭は、16歳で土地が与えられ、50歳になると土地を村に返すという運命共同
体で、個人的な富の蓄積はありませんでした。ですから、「そういうところでは一人で歌う歌はまったく必要がない。
そのかわりにみんなが一緒に豊作を願ったり収穫を喜んだりするための歌と踊りは生活の一部になっていて、全員
が知っていて全員が上手なのです。ですからその人たちのばあい、必要最低限の音楽しかもっていないけれども、そ
の音楽は生きることに直接つながっている。そういうふうに音楽の密度が濃い意味をもったいるところまで一度返って
見ることが大切です」(團伊玖磨+小泉文夫『日本音楽の再発見』69-70ページ(講談社現代新書462 講談社
1976 ))と述べています。
教会共同体においても同様のことが大切です。教会共同体はまさに、キリストを頭としていただく神の国をあかしす
る運命共同体です。教会の公の祭儀、典礼においては、周囲の人と関係なく一人で歌うということはありません。司
祭が、あるいは詩編の先唱者が一人で歌ったとしても、それは共同体を代表して歌うのです。それは、共同体全体
が神の行われた不思議なわざを思い起こし、神に賛美と感謝をささげるために歌います。国頭の例から言えば、典礼
でも必要最低限のもの、まずはじめに対話句や祈願などの式次第、ミサ賛歌、そして行列の歌の順でいいわけす
が、それはまた、ミサに直接つながっているものですから、共同体全員が知っていて、一つの心で(一致協調して)、
品位ある深い祈りとすることが大切なのです。一部の人が難しい歌を歌うのではなく、司式する司教、司祭も会衆一
同も、対話句や祈願などの式次第からはじめ、ミサ全体を歌うとき、拍子や息を合わせて「一致協調を促進し」、旋律
やハーモニーを整えることで「心の一致を声の一致」で表現することが、歌をミサそのものにし、ミサにおいて歌に実
体感を持たせることになる。言い換えれば、ミサにおいて、歌を健康な形にするには、やはり、対話句をはじめ式次第
などのミサの基本的な部分を歌うことに尽きるのです。
 教会音楽は、教会の歴史の中でさまざまな形態のものが生まれ、音楽的、芸術的にも素晴らしい作品が作られて
てきました。もちろん、それらを否定するつもりもありませんし、使ってはいけないというのでもありません。しかし、現
代のさまざまな音楽と同様に、音楽の本質からみた「人はなぜ歌をうたうか」という点から考えると、残念ながら典礼
音楽も不健康な状態になってしまったのです。現代の教会は、さまざまな点で、多くの問題を抱えています。それらも
含めて考えると、典礼音楽も、祭儀に密着したレベルまで一度下がってみて、聖歌の一つひとつにもっと意味を待た
せること、実体感を持たせることが必要な状況になっているのではないでしょうか。
 《この項の参考文献》
 『第二バチカン公会議公文書全集』「典礼憲章」(サンパウロ 1986 )
 『ローマ・ミサ典礼書の総則(暫定版)』(カトリック中央協議会 2004 )
 小泉文夫『フィールドワーク』「人はなぜ歌をうたうか」(冬樹社 1984 )
 團伊玖磨+小泉文夫『日本音楽の再発見』(講談社現代新書462 講談社 1976 )

【共同体造りのために】
 このように、祈りを歌うことは、共同体の存続という側面からも、歌を共同体の本来のあり方とするためにも、非常に
大切なことなのです。ミサにおいて、一部の人が難しい音楽を演奏して、他の人はそれを聞いているという必要はあ
りません。共同体全体が「一致協調を促進する」ために息を合わせ、「心の一致を声の一致で表願する」するために、
旋律やハーモニーを合わせることこそが重要なのです。これらに力を入れず、息が合わない、旋律やハーモニーが合
わない共同体は、いずれ滅びるのです。
 これからの教会共同体造りで大切なことは、ミサや「教会の祈り」全体を、息(拍子)も、旋律(やハーモニー)もきち
んと合わせて歌うことなのです。これらが上手になるための一番確実な方法は、それはまた最も地道な方法ですが、
いつも歌えるように、また、いつ歌ってもよいように、いつでも歌うことに尽きるのです。

 【参考文献】
 『第二バチカン公会議公文書全集』「典礼憲章」(サンパウロ 1986 )
 『ローマ・ミサ典礼書の総則(暫定版)』(カトリック中央協議会 2004 )
 「典礼音楽に関する指針」(礼部聖省発布 典礼委員会秘書局 1967 )
 小泉文夫『フィールドワーク』「人はなぜ歌をうたうか」(冬樹社 1984 )
 團伊玖磨+小泉文夫『日本音楽の再発見』(講談社現代新書462 講談社 1976 )

 《本項は、拙稿、『聖歌は生歌-典礼音楽入門』の原稿を一部割愛し、
修正したものです。なお、刊行の予定は未定です。》  


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